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ポケモンファンが観た『スタンド・バイ・ミー』
最初に断っておくが、僕はこの映画をあまり好きにはなれなかった。

※トラックバック先のブログ(せれんさんの「大きくて小さな獣たち」の「スタンド・バイ・ミーを観て思うポケモンの世界」)がこの記事を書くきっかけ
初代『ポケモン』にハマりまくっていた1996年当時、ゲーム内のテキストもまた貪るように読んでいた。主人公の家のテレビを調べた時に流れる「男の子が4人、線路の上を歩いてる」というメッセージも、その中の一つである。ただしこの時点では、その映画が実在するもとだとは思わず、『スタンド・バイ・ミー』というタイトルすら知らなかった。

たまたまテレビで映画が放映されるとき、そのCM映像(まさに線路を歩くシーンが使われていた)を目にする機会があった。「これだ!ポケモンに出てきた映画だ!」と思ったのだが、放送日に忘れていたのか別の事情があったのか、とにかくその時は見そびれたと思う。番宣の印象では「古くて地味、つまらなそうな映画だな」というのが正直な感想だったので、あまり積極的に見ようとも思わなかったのだろう。

その後、インターネットを自由に使えるようになると、いくつかのサイトでは『スタンド・バイ・ミー』をポケモンに関連付けて絶賛している例があったと思う。ここにきて、やはり「つまらなそう」ではなく、ポケモンファンとして見るべき映画なんだと判断。ほどなくして(レンタルだったか地上波だったか今いち思い出せないが)映画本編を鑑賞するに至った。

しかし、映画の内容は思っていたものとは違った。確かに少年の日常から冒険に至る部分だけ切り出せば共通点はある。しかし本作はそれ以上に、暴力とドラッグに侵されたアメリカの田舎町の退廃を痛々しいまでの生々しさで描いていた。不良である兄達に対して、主人公は強さを見せつけたものの、その後に友人の一人は暴力により死亡することになる。楽しい冒険よりも、遥かに辛い現実の描写が目立ったのだ。

ショックだった。それまでに見ていた映画というものは、悪を成敗して世の中をよくするような痛快な娯楽作品ばかりで、このような苦い終わり方をする作品自体に馴染みがなかったというのもある。そして『ポケモン』についても、当たり前のように「痛快な娯楽作品」として受け取っていたので、そのポケモンに影響を与えたという映画が「娯楽」とはかけ離れていた(少なくとも当時の僕にはそう感じられた)のが嫌だった。

それ以来『スタンド・バイ・ミー』は僕にとって、ある種のトラウマ映画となる。この記事を書くにあたって、記憶があいまいな部分について映画情報サイト等で確認することはあっても本編自体は観返してもいない。上記で述べたような印象には誤りがあるかも知れず、また大人になった目で見ればまた別の見方ができるかも知れない。しかし「映画やゲームは娯楽であるべき」という僕の価値観に相容れない映画であることは、おそらく否定できないのだろうと思う。

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以下はおまけ。上で述べた「痛快な娯楽作品」について、ポケモンは恐ろしいほどその条件を満たしているということについての解説。

僕が思うに、『ポケモン』を娯楽作品たらしめている最大の理由は、つまるところ主人公の扱いに他ならない。RPG、ひいては多かれ少なかれ戦闘の要素がある創作物の中では特異なポジションなのである

まず、主人公の立ち位置がとにかく自由であること。過去の因縁にも未来の宿命にも縛られない。故郷を焼け出されてやむを得ず旅に出るわけではなく、平和な日常に足場を置いたまま、いつでも帰ってこられる自由な冒険である。一応、旅に出る際には目標としてポケモン図鑑の完成を言い渡されるが、あくまでも長期的な目標であって、図鑑を第一に行動しなければいけないわけではない。むしろ「外の世界に旅立つための口実」という側面すらある。

第二に、主人公の一人旅であること。仲間のわがままによってルート変更を余儀なくされたり、勝手に戦線を離脱されるようなこともない。もちろんポケモンは仲間になるが、システム上は人格を持った仲間というよりは手足や道具のような「主人公の一部」のような扱い。敗北の要因は命令のミスだったり、回復や撤退のタイミングを誤ったことによる自己責任である。

…ところで『スタンド・バイ・ミー』では4人だが、男子が4人集まればそこに序列が発生する。専門用語でいうところのホモソーシャルというやつである。男に限らず、同性のコミュニティではどこでも多かれ少なかれ発生するだろう。これについていけないと、一人になったり異性とばかり遊ぶようになるわけだ(余談だが、ゲームでいえば同じく『スタンド・バイ・ミー』のネタが作中に登場する『MOTHER』において、戦闘能力の差によってより直接的な序列をプレイヤーが感じることができる仕組みになっていて、これはこれで興味深いのだが長くなりそうなので別の機会に譲る)。

そして第三に、主人公がとにかく強いということ。ゲームバランスが簡単という意味でももちろんそうだが、シナリオにおける行動パターンも豪胆と言う他ない。なにせ、マフィアのロケット団に対してすら一切の策を弄さずに真正面から単身でカチ込みをかけるという蛮勇さを見せる。それでいて何ら不都合を起こさずに問題を解決するのだから本物の強さである。

しかも、その強さについて作中では特に裏付けはない。前述のように因縁や宿命に縛られた主人公であれば、あるいは超人的な力が備わるのかも知れないが本作の場合はそうではない。物語上の合理的な理由が無いにも関わらず出鱈目に強い。これを未成熟で子供じみたシナリオだと笑うことは簡単かも知れないが、真正面から力をふるって勧善懲悪を成す物語というのは単純に痛快で楽しいものがある。今でいえばネット小説系に多い「最強もの」に通じるし、古い例でいえば大衆時代劇もこの構図である。

実は、この「主人公の強さ」こそが一番重要で、これこそが初代ポケモンのストーリーの根本を成すものである。前述の「自由な一人旅」が成り立つのは、主人公がとにかく強いからに他ならない。初代ポケモンのファンが近年のシリーズに感じる違和感の根本は「主人公の強さ」をブレさせる展開なのではないかと思う。パラメータ上はともかく設定上で悪の組織や伝説のポケモンをやたら強大に描いたり、あるいは主人公の行動が他人に振り回されたりするような要素だ。初代のストーリーが(システムの良さを別にしても)楽しかったのは、とにかく強い主人公が暴れまくって世直しするという痛快で明快な物語があってこそだと思うのである。

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