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書評:絶歌 (追記あり)
少年犯罪の加害者になるとはどういうことか。


出版の報とその後の反応を見てまず思ったのは、酒鬼薔薇聖斗による一連の事件は未だに強いコンテンツ性を持っているということである。その猟奇性や犯人像から、今もなお多くの人の感心を惹く事件であったのだと改めて印象づけられた。

この本を敢えて購入して読もうという人は以前から事件や加害者(以下「A」と呼ぶ)については多かれ少なかれ興味があった人ばかりだろう。そのような読者の期待に応えるがごとく、直観像記憶の持ち主とされていたAの記憶力をまず印象づけられる。書き出しは逮捕から始まるのだが、取り調べの刑事や留置所の係員の特徴描写がかなり細かく、それに対して何を感じたのかも非常に具体的。私物のメモなども持ち込めない環境においてよくぞここまで覚えていられるものだと感心してしまった。精神狩猟者(マインド・ハンター)と題した精神鑑定医との「対決」は読んでいて非常に興味深かった。

第一部については、幼少期のことや犯行の様子などが時系列を前後して綴られる。比喩を多用した陶酔的な表現は、当時の想像力や感性の記憶をありのままに記したものと、事件後から執筆時点にかけて練り混まれたレトリックがどういう割合で混合したものなのかは、一読者としては知る術はない。

読んでいて一番辛かったのは猫殺しの場面である。非常に生々しい描写となっており、もし愛猫家を自認している人であればこの部分だけを取り上げて「読むな」とアドバイスしたい。殺人については具体的な描写を避けているが、被害者少年の殺害後の行為について、(既に事件後に出版された書籍などで明らかになっているとはいえ)この本で初めて知るという人は相当のショックを受けるだろう。

全体的にフィクション的というか、俗な言い方をすれば「中二病」的な表現が多いのでそっち方面が鼻につくという人も多いだろう。池の畔の洞穴と木を女性と男性に例えて、アダムとエヴァのアナグラム「アエダヴァーム」と名付けたエピソードは印象的(過去に公開された日記や供述では未出だと思う)。その一方で「バモイドオキ神」だの「ガルボス」だのの話は一切出てこなかったので、あの「設定」は何だったんだろうという気持ちにもなったが。

少年院の話はなぜかカットされ、第二部は社会復帰編となる。コミュニケーションが不器用な若者が職場を転々とする様子には感情移入してしまったし、(自業自得とはいえ)心ない人によって素性を触れ回られて夜逃げ同然で逃げるハメになったり、同僚に陥れられた話は憤りすら覚えた。そして「ああ、Aも同じ人間なんだな」と思うわけである。

興味本位を越えたところで、この本が出版された社会的な意義があるとすれば、加害者とその家族の「その後」を考える材料としてであろう。人は誰もが自らや、大切な人が犯罪被害に遭うことは想像できるだろうが、逆に加害者にもなりうるということにまでまともに想像が及ぶだろうか。Aのケースでは、これだけの事件を起こしても両親や弟たちはもちろん、犯罪者になったら縁を切ると宣言した叔母ですらもAを見捨てなかったのである。家族の絆とはこれほどまでに強いものであることを実感したからこそ、犯した罪の重さが余計にのしかかることはA自身も痛感しているだろうが。

情状酌量の余地のない犯罪だからといって、「加害者」を人間ではないかのような異常者として扱い、自分や身内は絶対このような異常者にならない、などと思ってはいないだろうか。誰しも被害者になる可能性があるのと同じように加害者になる可能性もあるのである。今まで無意識にせよ意識的にせよ「加害者」という存在に目を背けていたことに後ろめたさを感じたのであれば、この本を読むことによって得るものはあると思う。

最後に。出版にあたってAが本名すら公表しないのはアンフェアだという意見が非常に多いようだが、Aを支援したという篤志家夫婦(夫婦には子供もいるという。今や孫がいるとしても全くおかしくはない)や、今も働いているであろう職場、そしてAの元家族へ与えうる影響などを考慮すると、本名(現在使われている名前)の非公開というのは必ずしも彼自身の一存による保身目的とは言い切れないことは想像すべきだろう。

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9月14日追記:

Aによる公式ホームページが公開され、トップページにて本書を以下のように紹介している。

「少年Aについて知りたければ、この一冊を読めば事足りる」
そう言っても差支えないほどの、究極の「少年A本」です。


言い方を変えれば、これ以外に多数出版された「少年A本」、すなわち事件を扱った本は読まなくてもいいと言っているに等しい。自らの言葉以外によるルポから読みとれるのは偽りの姿、あるいは自分が見せたくない姿ということなのだろうか。

ところで最近出版された草薙厚子氏の著書『元少年Aの殺意は消えたのか』において、絶歌の中の「精神狩猟者」との「対決」場面の通り、Aが鑑定医に対して虚偽の自分を演出していたのだとしたら、その報告に基づいて実行された矯正プログラム自体の有効性に疑問が出るということに触れていた。この見立て(草薙氏は後から「うそぶいた」ものだとして否定しているが)が正しかったとしたら闇は相当に深い。

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